昭和47年12月10日 月次祭
何を覚え、何を体得させて頂きますでも、修行の伴わないものは、何一つとてもありません。それを自分のものにしょう、自分がそれを体得して自分のものにしてしまうと言う迄には、もう絶対修行と云う物は付きもの、ましてや、信心は、その修行は絶対のつきものである。信心に修行は付きもの、それにお徳が付く、それにおかげが伴う、と云う訳で御座います。そこでその修行がです、ね。
信心の稽古させて頂くと言う事は、その信心の修行が、成程修行ですからきつい、やはり苦しい、けれどもそのきついとか、苦しいとかという修行がです、信心を体得して行く事によって、その修行もまた楽しゅうなり、またそれが有難うなって来ると言う所までが、信心修行なのです。だから、今日は其処の所を皆さん本当に一つ、分かって頂きたい、また其処ん所が分からせて頂いて、体得がでけたら、どう云う事になって来るかと云う事を聞いて頂きたいと思います。
御本部からお帰りの方達は、お疲れの所で御座いましょうけども一つ、是は御本部参拝のお土産を、今日此処に締め括らせて頂くと言う積りで、聞いて頂きたいと思います。この度後本部参拝のおかげを頂きました。行きがけに際しまして御祈念そして、私は一口皆さんに聞いて頂きました事は、ちょうど昨日ですかね、昨日の、こう、此処を出発されるのは何時でしたかね、七時でしたか。あ、あ、六時でしたか、私は何時に集合して、何時に出発すると云う事を知りませんでした。
昨日も丁度四時半の御祈念終わって、その後またお取次ぎさせてもらいよりましたから、五時近くまでお取次ぎさせてもらってました。それからすぐお風呂頂いて、お食事終わらせて頂いて頂いておる所へ、あの若先生があの今日は六時が御祈念です、又出発ですと云う事を言うて来ましたから、ああそうか一つも知らなかったそんならというて、食後の果物を頂いてから、此処へ出て参りましたらきっちり六時でした。
だからあの御祈念をさせて頂きましてから、皆さんに聞いて頂いた事は例えばあのぜんぜん、さあ六時だから、それに合わせんならんと言うたのではなくて。私のその一日なら一日の動き其の物がです、此の様に一分一厘間違いのない、神様の御働きの中にあるのですし。この御本部参拝もその様なお働きの中におかげを蒙って来るですから、神様の間違いのないお働きを感じ。
そして其処にそういうご守護の中に私どもがあるんだと云う事を、分からせて頂く事によって今度の御本部参拝の、まあお土産にしたいと言う意味の事を皆さんに一口聞いて頂いた。もう是は何時もの事ながら御本部参拝をさせて貰いまして、行って帰って来るただいままで、もう本当に神様の間違いのない働きの中にあるんだなぁと言う事で御座います。このお祭りを仕えさせて頂くのも、別にそれだから急いだと云う訳でもないですけれども、丁度きちっと八時の八時半のお月次祭を奉仕させて頂く事が出来た。
いわゆる初め昨日からこんなに只今まで、もう本当に一分一厘間違いのない神様の働きの中に此の様におかげを頂いた。してみると皆んなもその様な働きの中におかげを頂いておると言う事になる。その実感が神様此の様な間違いのないお働きの中に、合楽の信奉者がおかげを頂いておりますと言う事をです、私はお礼を申し上げなければならない。ね。それをいよいよ分からせて頂く事のために、信心修行が必要なのです。
あちらへ到着させて頂きましたら、西岡さんがあの輸送係で御座いましたから、もうそれこそ、若い者に混じって生き生きとして、あのホームでご用頂いとりました。そしてあの私どもが、御祈念を終わらせて頂いて、私は豊美の所に何時も行きますから、あちらへ参りましてから、もう開口一番申します事は、こう言う事で御座いました。親先生、昨日、永井肝四郎先生の、永井学監の講和が御座いました。その中に親先生の御信心を説かれました。と言うのはあの和賀心時代を創ると言う所に。
教祖の神様のみ教えの中に、ね、金の杖を付けば曲がる竹や木は折れる、ね、神を杖に付けば楽じゃと、仰せられる御教えがあるが、ね、私どもが信心しておるから、もし楽でないならば、私どもはまぁだ、金光大神を天地金乃神様を杖についていない、いうならば、神を杖についていない証拠だと説いてある。もう是程しに教祖の信心を頂い、頂いた、頂くと言う事は無いだろうというて話されたそうです。ね、そこからその合楽の話があった、ね、合楽の先生という方はまだ自分は知らないけれども、ね、
もうこの、此のみ教えを頂いただけでもです、ね、銘々が、ね、もし楽でないならば、私は金光様の信者です、金光様の信心を信じております、親先生を信じておりますというても。それは、まぁだほんとに信じていないのだ、神を杖についてはいないのだと悟らしてもろうて、まだまだ自分が信心が足りんと思うて信心を進めていけば、そこからです、神を杖に付けば成程、此の様にも楽なもんだという体験が生まれるんだという、もう先生最近はもう合楽ブームで御座いますと、こう言うのです。ね、
それからです、豊美が昨日、一昨日はその幹三郎がやって来た。僕はお姉ちゃん、この頃信心が分からん様になって来た、どうしてや、ち、どげん考えたっちゃ分からん、僕は合楽の信心に迷いを感ずる。とうとう夕べは、夕べでした、昨日、やっぱ昨日、一昨日ですかね、昨日ん晩です。朝の三時半まで兄弟で話しとった。豊美ん所で、学院には特別な理由で、あの、古川の所におるからというて大体そう言う事はもう掟、厳しいですから、ね、外泊とかは出来んのです。
けれども、その古川先生のそれこそおかげで、まあ、泊めてもらったけれども、泊まったのじゃない兄弟三人で、信心話しをしたと言う事で御座います。ね、豊美と婿とそれから幹三郎と、三人でもう一生懸命に信心をもう話した。第一僕がね合楽の信心にその迷いを感じ出したのはね、最近あまりに合楽合楽と皆が言い出した。しかも合楽の息子であるからもう、その皆が関心を僕に寄せて来る。ね、そして合楽の信心は素晴らしいと言いうて、皆が言うが果たして、本当に素晴らしいかと思うたらね。
僕はそこの素晴らしく無い所を、気付きだしたとこう言うのです。先日玉水の初代の、湯川先生のお話を聞かせてもらった。もう当時それこそ飛ぶ鳥を落とす程しの、玉水教会の湯川先生のお話で御座います。湯川先生という方はもう非常に祈念力の強いお方であった。そしてもう自分がおらなければね、もう一日自分が長生きをすれば、一日それだけ人が助かるんだという信念の元にね、もう大変に体を御大事になさった。もう絶対、魚にね、骨のある魚を食べられた事が無いちゅう。
だからもうむしって差し上げる、身の所だけを持って行く。でないともし間違って、骨が喉に立ってです、でそれで例えば命を落とす様な事があっては、神様に対して相済まんと言うのが、ご自分の体を大事にされると言うのは、もう神様のね、お役に御用に立たなければならないから、命を大事にさなければならんのだと説かれたそうです。それを聞いた時にね、第一うちの親先生はどうかと、糖尿病ちゆうちからもう、甘いもんな食べ放題、酒は飲み放題、お夜食はしなさる。
そげな事で僕は親先生の信心に疑問を感ずる、僕達も思うておる僕は親先生を見るとね、何時でも親先生の素晴らしい所を見たらね、何時でも有り難くなれれるんだとこう言うのです。ね、それは本当に僕は幸せだけれども、親先生に一日でも、長生きをして貰わんならんと言う願いが、切である程にです、親先生はあまりにも、教祖のみ教えをほこにしておられる、と言う事が、その疑問に感じた所らしいんです。ね、次にはね、是は皆が一生懸命に修行をしておりますとね。
外んもんが修行しよらんごと見えて来る訳ですね。家族の中でも、自分がなんか、断食修行でもやっておるとですね、外んもんなもう、もう馬鹿んごと見えて来る訳ですね。そしてあんたどうのちゅうて、肩をたたいて言いたい様な物がこれ私共体験があります。教会なら教会を中心に一生懸命、霊祭の御用でも頂きよると、それに信心友達がぶらぶらしてやって来ると、もう肩たたこうごとある。ね、しっかりせんのち、ちいうててその自分が一生懸命の時はそんなもんなんです。
ま幹三郎もそれを感じるらしいんです。第一若先生がどうこう、うちの兄弟達がどうか、ね、合楽教会の例えば二代を継がなければならない若先生が、信心があれで良いか、と、もう言わば、教会内の家庭内の人たちの信心が目に付いている訳です。それから第一総代さん達の事が、菊栄会の人達の事が、ね、あれ程しの教えを頂きながら、あれで合楽は良いのかと、是程、現在合楽の信心をです、皆が取り上げて、言うならちやほやされればされる程、合楽の信心がいよいよ、こんな事ではいけない。
僕はもちょっと帰って来るち、お母さんにも会おうごたあるけども、親先生に此の事を一言、言いたいちゅうちからその、も、真剣に言うたそうです。けども豊美もそれに答えて、なんと言い様が無かったとこう言うのです。ね、成程例えば合楽の信心がです、例えば、ま低級なちゅうかね、拝み信心の様に見られておったのが、此の様に素晴らしい教祖を語り、教祖を深く広く分からせて頂いたと言う様な信心は、まずなかろうと思われる、私もそう思う是だけは、ね。
先日も二三日前の朝の御祈念の時でしたが、今までの合楽の信心は丁度福禄寿、頭の長い福禄寿、頭の中に詰め込んできた、ね、合楽の信心を頂けば頂く程、そのみ教えの素晴らしさに只只、驚いてしもうてもう兎に角御理解一本で、合楽は立っておると言った様な感じです。だから何処の先生の話を聞いても、信者の話を聞いても、なんか程度の低いものに聞こえる程しに、皆さんもあったでしょうが。ね、そういう意味で、なら二十数年間、私どもは鍛えられて来た。
だから是からはです、例えばお腹の大きいあの布袋和尚ですね、大きな袋を持って、袋の側にこうしておられるでしょう、あの布袋和尚を、もうその信心が中に入ってしまう、信心が身に付くという、言うならば、おかげを表す事の出来れる信心と云う物を、是からは頂いて行かなければならないと言う事を頂ました。だからそう言う様な事を私、豊美に話させて頂いて、豊美たち夫婦に話しました。
現在合楽の信心が此の様に展開、新たな展開を今、この記念祭を境にこう言う風になって行きよる、というてその泉南行きの事を、私が詳しく話し、阿倍野のとの出会いを詳しく話しました。それは昨日は、幹三郎が丁度神饌の方の御用を頂いておりましたそうですから、此の人はもう間違いない事だと思うんですけれども、私どもが朝、皆さんと一緒にお届けん出る。そのまだまっ暗い中にですもう兎に角、魚屋さんの様に長靴はいて、こうゴムの前掛けはめてですね。
神饌もんですから洗物なんかなんです、の御用をもうあの三時半からやってる。そしてその御用を一生懸命さして頂いて、その合間にですね、今日親先生がもう来とるからと言うので、一生懸命走って来よるのと、私共がお礼に出るのと、あの金光様の前ん所の角ん所でぱったり会った。ね、それでその事を私聞いとりましたから、「幹ちゃん、最近はね、合楽の信心は非常に飛躍を遂げよるよと言うて、そしてほんなあすこん道をあのちょっとの間のだから話してから。
ほんなら僕はすぐ、あの、姉さんにお食事の、僕のもしといてもらう様に、そのお食事の時間だけ、あの時間をもろうてやって来るからと言うて、あの申しますから、お届けを終わらせて頂いてから、しとりましたら、合間のもう奉仕着を付けて、またやって参りました。そして、なら合楽の最近の信心を聞かせてくれと言うて、その言うまあ兄弟皆揃うて、あすこでお話をさせて頂いた事でした。
もうもう本人も感激して、お姉ちゃん、僕が昨日言いよったのは此処じゃった、しかし僕が言いよった思い祈りが通じたと言う喜ぶんです。ね、第一親先生がもう夜食などしないと決めた。ね、今合楽ではね、いわゆる五項目があげられて、しかもこの五項目が、例えばその五項目の事皆さん、まだ知られない方もずいぶんありますから、お話させて頂きますならです、ここ三、四日その事だけが説き続けられている訳ですけれども、昨日一昨日、青年会が御座いました。
青年会で、だから私、久し振りに、入って、あのお話頂きたいと言うから、お話させて頂いた後に、ね、皆の体験発表聞かせて頂いた中に、光昭が発表致しております。その中にです、本当に合楽の信心は、聞けば聞くほど難しい、どこをどう言う風に頂いて行った良いのかと言うて何時もその、思うておった所が。ここ四、五日、此の様にも素晴らしく、此の様にも見やすく、ね、み教えを行じ守られる信心が此処にあったと言う事を発見して、もう本当に、喜びだと言う事を話しております。
ほんならそういう手近にです、身近に此の様な信心があったと、この信心が今まで頂いて来た合楽の信心の中身になるのだと、発見させて頂いた時にです、最近の信心が、ね、若先生本当に楽しゅうなりましたね、と言うてこの縁台から、若先生にそう言いかけているんです。ね、とい言うのは、ならどう言う事かというとです、私がね、是はどうでも家族勢を揃えて、この事だけは願わなければならない、しかも繰り返し繰り返し願わなければならない。
私こん、今日この教祖の奥城では、元はもうその事だけを願ったです。もう其の事の中に全部が入ってしまうんです。一つ、どうぞね、体の丈夫を願えと仰せられますから、一家中の者が信奉者一同がです、体の丈夫のおかげを頂きますようにと言う事を願う。その代わりに神様、体の丈夫を願うからには、ね、いわゆる大酒、大食、いうならば、不摂生な事は決して致しません、と言う事。ね、汽車の中でも夜食が沢山、見ますもう全然、夜食はとり、勿論頂きませんでした。ね、
それは切実に体の丈夫を願うておるから、今も体の丈夫だから是で良いと云う事はない、もう限りなく体の丈夫をもう是は一家の者が勢を揃えて、もし子供がおるなら子供も意味が分からなくても、此の事だけは言うて聞かせて分からせて、そして暗証させてご祈念させて頂くぞ、この五項目はお願いしたかと言う位いな気持ちで、勢を揃えて信心しなければいけない。二つ。それは家庭信心に、家庭に不和が無きが元と仰る。
ですから、この元の所のです、どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さい、お願いします、おかげを頂かせて下さい、と切実に祈るからにはです、その代わりこの祈りを境にです、人を責める様な事は金輪際致しませんという修行が必要。人を責めない、責めるなら自分を責める、ね、人の足元が見える時には自分が疎そかになってお時だ、どうして、とい言う事は言わない。
こうして神様が私を鍛えて下さるんだという、責めると言う事をもう、お供えいたしますからどうぞ、家庭円満のおおみかげを頂かせて下さい、夫婦仲よう、親子睦まじゅう、家族一同がです、円満なおおみかげをさせて頂きながら、信心生活をさせて下さいと願い、願うからには、人を責めませんという。第三ね、子孫繁盛家繁盛を願わない者があろうか、ね、本気で子孫繁盛家繁盛を本気で願い、もう毎日毎日この事はしっかり願わねばならん。しかも家族が勢を揃えて願わなければならない。
お父さん願って下さい、あんたも願うて下さい、ね、言うなら、番頭さんにも女中さんにも頼むがいい、ね、そしていわゆる子孫繁盛家繁盛をしっかり祈り願わして頂かなければならない。どうです、家繁盛子孫繁盛を願わない者んがあろうか、是を切実に祈らなければならない。繰り返し願わなければならない。願うからにはです、子孫繁盛のおかげを、家繁盛のおかげを願うならば、商売繁盛のおおみかげを頂くならばです、ね、その仕事そのものに忠実にならせて下さい、ね。
仕事を不精になっちゃ詰まらん、その仕事を本気で忠実に守らなければならない。同時にどうぞ金が貯まります様にと言うて願うならばです、無駄使いをしない、もう是は神様、無駄使いは決して致しません。ね、例えば十本のタバコをのんであるならば、五本だけは今日からお供えします、身を削って奉る、それを私は神様に誓い願わせて頂いて初めて、子孫繁盛家繁盛は切実に願われるものであり、また神様が聞き届けて下さる物であると言う事を思うのです。
私がその話をさしたら、幹三郎が感動するんですよね。僕がね合楽の信心に欠けておったち、ほら姉ちゃん話した事をね、今、合楽でそれが実行されておるんだと。それを皆さんにそれを徹底して、合楽が是からの信心の、いわば合楽の信心の内容として、おだてられればおだてられる程、合楽の信心が素晴らしいと言われれば素晴らしい程です。そう言うとに欠けておった事に、僕は疑問を感じておったけどもです、その疑問が祈りとなり、その祈りが、もう本当に幹ちゃん。
あんたが言よったつがこりゃ、ほんなこて合楽に通いよったつばいね、と言うてから兄弟で話してるんです。ね、また私が此の事をまだ一週間足らずですね、此の事を、あの皆さんに聞いて頂いておるのは、だから皆に徹底しておるはずはありませんけれども、もう、すでに、朝のご祈念が多くなりました。昼のご祈念が多くなりました。夜のご祈念が多くなりました。ね、四時の私のご祈念にも、お参りがある様になりました。ね、
日に日参りと言う事は、一辺二辺と言うて、決まったこっちゃじゃない。部落の方此処の合楽の方達や、何べんもお参りをして来る様になりました。ね、しかもそういう信心修行がです、ね、一番初めに申しました、そういう信心の修行がです、楽しゅうなり有難うなるという所までいかなければ、私は信心修行いわゆる金光様のご信心、信奉者とは言えない。ね、信心修行を抜きにしてです、信心修行を抜きにして、私は本当の徳が受けられるはずはない、徳に伴う所のおかげは勿論頂けるはずはない。
いわば修行をいとう様になってです、もう金光様の信心なもうしまえとると、ただおかげ頂よるけん、お礼参りだけ、月次祭ん時だけのお参りと言った様なこっちゃいかん。ね、しかもです、ね、家族が勢を揃えて願う、ね、阿倍野の先生のお話をお書物で読ませて頂きますとです、ね、お願いをする、おかげを頂く、またお願いに来る、所がおかげになったりならなかったり、そん時にゃ主人であるならば、奥さんに加勢して貰いなさいち、あんたが一人でこうやって持ち上げられんとこじゃけん。
奥さんに加勢してもらや、持ち上がるかん知れんばい、だから奥さんに加勢してもらいなさい、それをもうその場で実行させてござるという感じですね。所が夫婦で持ち上げるばってん持ち上がらん。そんなら子供に頼みなさい、女中さんにも頼みなさい、会社員の方達にも頼みなさい、と云う訳なんです。そしてそれがおかげになって、持ち上がる。そすとその女中さんもおかげを頂ければ、子供達もおかげを頂く、勧められた主人も家内もおかげを頂くと言う事になって来た。
だから例えば朝参りが千人と云う程しの御比礼になって来た訳です、ね。そう云う物がね、もう生活の中にその信心と云う物が、入ってくるじゃなくて、もう信心の中に、生活があるという感じなんです。だからお参りをする時間なんかもう生活の中に、入ってる訳です。今日は忙しいけん参られんと言った様なもんじゃない訳です。忙しからこそ、先ず信心の方を先しとかんならん、と言うのをです、阿倍野の場合なんかもう実行させて御座るという所に、先生の力を感じる訳ですけれども、ね。
最近は例えばラジオの六級ぐらいな信心の力からです、ね、テレビの大きなあんなテレビ見た事ないこげな大きなテレビが、そこの廊下の向こうの廊下の所に座ってもう、沢山の線が後ろから見えるそれを接ないで、此処の研修室に据えようと畳をこう二、三枚剥ぐってある所をお知らせに頂いてです。是は合楽も大変な力と云う物を、頂く下さろうとしておるなと言う事を感じます。ね、例えばなら今日の、あのお供え物をご覧下さい、皆さんが、まだ見た事も無い様なお神酒のお供えがあってましたね。
一つは、超大関と言うのがある、ね、是なんかはもう、力と言う事、ね、もうあのもう兎に角もう特別な力という、もう一本こちらには、西海福寿というお神酒がありましたね。ね、西海と言う事は九州と言う事です。小倉の桂先生が、近藤藤守先生の所にご修行におい出られた時に、玄関にその乞いを問われた時に、ご結界から下りて見えられた近藤藤守先生がね、四神様の紹介状を持っておいでられた、して九州からこうして参りましたねちゅうたら、はあ西海に緋鯉を放すと今朝の祈念に頂いたが。
お前が西海の緋鯉かと仰った。緋鯉と言う事は生みなす力、西海と言う事は九州九州から緋鯉上って来ると言う事をお知らせに頂いたが、お前の事かと仰った。ね、そしてその修行をなさった事があります。西海と言う事はそういう意味です。ね、恐らく私は今の九州ででそういう意味において、例えばなら今度の四神様のお祭りに参加させて頂いてです、やはり参拝の上においてはやっぱり一番多かったかも知れません、ね。
またそんならば本部あたりでも取り上げられておる合楽の信心と言う物が本当に見直されて来た。しかも、例えば学監に言わせれば、是程教祖のみ教えをです、ね、頂けておる、頂けておるという人があるかと言う事。もう是は、金光教の教祖の信心をね、もうね、もう本当に頂き抜いたと言う人でなからにゃ、こんな事は言えないのだと、ね、楽でないならば、まだ神を杖に付いていないのだと、まーだ金やら物やら人やらに頼っているんだと言う事なんです。ね。
今度私、奥城でご祈念をさして頂くのも、今も申します様に、今の五項目ね、いまの願わねばならない三つの事を皆さんに聞いて頂いたですけど、その三つの願いがです、どうぞ、神様にお喜び頂ける様な御用をさせて頂くと事の為に、健康も欲しい、お金も欲しい、子孫繁盛も欲しい、家繁盛も、いえ家庭円満も欲しいと言うのでなからなきゃならない。是が四項目の願いである。ね、
五項目は、ね、是はもう私どもの願いではなくて、天地金乃神様の願い、いわゆる御神願成就の事の為にです、どうぞ、私ども自身がまずおかげを頂いて、そのおかげを引っさげて、和賀心時代を創ると言う事の運動員にでもならして下さいという五つの願いであります。ね、この願いを繰り返し繰り返し、しかも、家族中でせなければならない。しかも信心が無い家内なら、信心のない家内に頼まにゃいかん。信心のない主人なら、信心のない主人に此の事を願わなければならない。
願うと言うても強引に引っ張って来る訳にはいけんからね、願い続けなければならない。その私、願いをさして頂きよります時に、あの脇息に依り掛かっるとこを頂いた。おかげば頂かなければならないから、あんたも参って下さいあんたも願って下さい、と言うのではなくてです、例えば家内に願うなら、家内その人も助からなければならんから頼むのだ、番頭さんにも頼むと言う事はいかにも、主人が頭を下げて頼みよるごたあるけれども、実はその番頭さん自体がおかげを受けなければならんから頼むのだ。
家内がお参りせんならば、お前も加勢してくれと口では言いよるけれども、実は家内その人も、助からなければならなんから、親父が地を低うして頼むのだね、だから参らんからと言うて心の中には、動く事はいらん。それは例えば頼む頼むと言うて、脇息に寄り掛かる積りで言いよると、脇息が引っ張られる、カタッと倒れなきゃならん。だから問題は本当は自分一人でよいのだ。けれども此の人も助からなければならないから頼むのだ。私はその事を今日、今度の御本部参拝で頂きましてですね。
頼む頼むと言う事は何回かにもこう、あの力が足りんけんあんたもお願いするばい、だけんごとあったけれどそうじゃないって。本当は私一人で良いのだけどもあんたも助かって貰わなければならんから、家族中で勢を揃えるのだと言う事、他人の番頭でん頼まなければならんのは、そういう意味でお導きをしなければならんから頼むのだね。ね、その事を私頂かせてもらいましてね、本当にそうだなと思いました。ね、どうぞ私が今申しましたその五項目がです、ね。
それこそ幹三郎じゃないですけれども、其処の所が合楽に欠けておった事を、最近合楽の信心が素晴らしい素晴らしいと、取り上げられる、取り沙汰される様になった所からです、ね、こげん言うならあげられておるが、果たして、合楽に帰って見てどうだろうか、親先生はどうか、兄弟達はどうかと見えて来た。所がその兄弟達が、もう最近の若先生が信心と云う物は、もうお母さんが話しよりました。もう言う事もいらん、語る事もいらん、もう一生懸命だ、ね。
ちょっと四回のご祈念には、奉仕着付けて兄弟皆出て来ておるし、ね、今まで例えて言うなら、若先生が朝のご祈念だけしたら、もう自分の用は済んだごたあるふうな感じで、もう寄り付かなかった。それがやはり奉仕着付けてやってっ来る。いや、兄弟達も皆それに習って、おかげを頂く様になったと言うたら、もう幹三郎がとっても喜んでる。ね、僕だけが一生懸命修行してから、兄弟どんは、修行しよらんけんで、ね、そしてなら、この頃光昭のそんのお話の中にです。
僕は思うたと、是が百姓さんなら、例えば僕達ぐらいになったらなら、もう百姓の中心になって、仕事せんならん。教会の中に居る者がぶらぶらしとっちゃ相済まん。親先生の手に足にもならせてもらうと言う事は、もう当たり前だと言うております。と言う様にです、合楽の信心が内容的にこう変わって参りました。そして今までどうにも出来なかった、持ち上がらなかった物がです、持ち上げられる言うならば、過程に今差し掛かっておるのであります。
もうあの此の事はね記念祭を境に、もう兎に角なんと申しますかね、特別な言うならば、家族勢を揃えて信心しておる人達の上にも非常な働きが始まっとる事なんです。ね、あの、是は丁度私もご本部参拝をさして頂きます、丁度あの、日の丁度四時のご祈念にかかろうとする前でしたけれども、八女のあの石橋先生が参って、お医者さんです、此の人はもう、あの、現代の医学ではもうどうにも出けない。
あのどうにも出けない、それを、あのお母さんが敬親会に入って、その敬親会たんびんにお参りになっておられます。お茶の先生をしておられます。御婆ちゃんは、そして、あの、記念祭の感激がもう兎に角滾って来た。そして帰って、言うても聞かない息子にね、息子達夫婦を前にして、今日はこうこうじやったが、兎に角このご本ば、一辺読んでくれんの、と言うて、あの和賀心時代の本をあの見せられた。
そしたらその晩、おばあちゃん今度の休みに僕も参って見ろうかと言う事になった。そしてあんたの病気を細々と言うて、ね、現代に医学ではどうにもならんのだろうけれども、お願いをさして頂いて来んのと、言うて参って、お休みたんびんに毎週毎週参って来る。ね、私は丁度その日に、お届けをさして頂いて、親先生、ここ二,三回ですね、あのお参りして来る間、もう自分の病気と言う事の苦痛を全然感じ無くなりました。
もうだから、忘れた様で御座います。本当におかげを頂きなさったですね、というて、言いました、あのお届けさせて頂きましたら、楽という字を頂きました。楽になった、楽、ね、お話を頂くたんびんに、心が楽になる訳なんです。ね、お話を頂くたんびんに、此の方はえらい仏教を勉強しておられる方です。だから合楽の親先生が言われる事は、とてもお釈迦さんでん説きなさらん事、説きなさると言うのが、合楽が関心持って来る事だったんです。ね、
そして合楽に関心を持ちだして、言うならば本気で几帳面な自分が自動車を運転しきらんもんだから、バス電車を利用して参って来んならん。で参って見える訳なんです。ね、そしてその病気を全然感じなくなった。したら楽という字、そしてね私の御心眼に此処に楽という字がこうあるなら、上の方から草冠がずっと下りて来るとこを頂いた、此処迄草冠が、そしたらどう言う事になりますか、薬という字になる。ね、
自分の心が楽になる、と言う事。お話を頂いて信心をする、いわゆる成り行き、この草冠と言う事は、自然という、自然を大事にしなければ、成り行きを大事にしていかなければならないと言った様な、ね、そういう信心が、いわゆる御事柄として受けなければならないと言う事が、此の様に素晴らしい事になって来る。現代の医学ではどうにも出来ないのが、記念祭からこちらですから、まだ何大したあれはないでしょう。ね、色々な治療もそれっきり止められました。
そしてもう合楽一本におすがりなさる事になった。そしたら話を聞いて楽になった。そしたら所謂、是にずうっと、あの草冠が下りて来る。そして此処にそれが薬になったんだと言う事。是は、人間関係の事であろうが経済関係の事であろうが、同じ事なんです。信心する事になって楽になる。心が喜びで一杯になる。ね、そういう中にです、自然の働きと云う物が是に寄り添う様に、おかげを頂いて来るんです。
そりゃねもう最近の人間関係とか、あの経済関係なんかの事はもうどげん考えても不思議で不思議でたまらんです。ね、例えて言うならば、今日は大きな大黒様がお供えが来たとりますね。とてもね、本当に思いも掛けない信心の、関係もない人からです、ね、合楽の先生が是でもう、大黒様の様な方で、神様から大黒様というて、そのお知らせを頂かれなさる。本当に合楽の先生は、もう打ち出の小槌をもって御座る様にです、もう自由自在なおかげを頂いて御座る言う様な話をしたんです、ね。
ですから、是は一つあの合楽にお供えしなさらんですか、ちゅて居られる。そしたらその人がそれこそびっくりしてからですね、もうあなたの意気に感じた、ならもう持って行って下さい、ち。それがあの大黒様、してあの大黒様を思うんです。もう兎に角大黒様のお体よりも、大きな打ち出の小槌にこうやって乗って御座る。ですから大黒様自身が、愈々もっともっと、力、いわゆる、超大関のおかげを受けなければならない。西海の福寿と云う物を頂く為に、ね。
頂く為に私はもう超大関の、力を頂かせてもらわなければならない。この打ち出の小槌を手軽くもてれる程しの、大黒様にならなければならないと、神様はお知らせ下さったんだと思います。是も昨日私御本部参拝の行くという寸前に、お供えが来ました。もうそう言う所から皆さん、もうさっきから言う様に、一分一厘間違いのない神様の働きと言った様な物をね、私の話の中に、一つの実証的な物がある。
そういう例えば不思議な不思議な働きの中に、皆さんもあるのでありますから。そういう信心を頂くと言う事はです、ただおかげを頂くと言う事では無くて、信心を頂かなければならない、しかも、ね、家族勢を揃えて頂かなければならない。しかもそれは、お互いが、日参りがです、そのまま、私共の生活の中に入って来るじゃなくて、その信心そのものの中に、生活が入って来る所のおかげを頂いた時です、ね。
いわば阿倍野で頂いておられる程しの素晴らしい御比礼になって来るのじゃないか、ね。阿倍野との交流と言う事は、そう言うただ、交流交流ではなくて、おかげ其の物も通うて来る様なおかげを頂かなければ値打ちがない。まあ此の事は本当に、もっともっと時間をかけてお話したいんですけれどもね。どうぞ皆さん、初めて聞いて下さった方達も御座いましょうけれどもです。
自分の信心をもう一段とです。進めさせてもろうて。どうでも家族が勢を揃えて、例えばさっき、申します五項目を本当に、祈って祈って祈り抜かせて頂けれる、この五項目を祈って、その五項目に付いておる処の、条件になる様な修行ですかね。それを光昭に言わせればです、此の様に見やすい信心が、此の様に足元にあったと気付かせて頂いて、私は心機一転のおかげを頂かしてもらう所からです、ね、愈々本当のおかげが頂けて来る様になると思うんです。
どうぞ。